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Q.地理学の中で資源・エネルギー分野を専攻しても良いのですか?高校の地理では資源・エネルギーの概要と産出場所などを記憶させられます。センター試験でも頻出だと思います。 しかし、地理学の本にはあまり載っていないです。地図関係ばかりです。(地理学だから当然ですが) 私が知る限りでは、「大学テキスト 人文地理学」(實清隆 著・古今書院)に「資源・エネルギー地理学」という項目があるくらいです。そもそも、そういうことはどこの大学でやっているのですか?人文地理学だから、西日本の大学(京都大学など)の文学部ですか?(東日本の大学の地理学科は理学部に属していることが多い) それとも、国際資源学部でやっているですか?国際資源学部があるのは秋田大学だけですが。そもそも、資源・エネルギー関係は地理学の分野ではないですか?どちらかといえば地政学の分野ですか?

A.私は地理学科に在籍しています。 大学の教授人で資源、エネルギーなどの研究をしている人はほぼいないです。 カリキュラムにも資源やエネルギーについての授業はほぼないです。人文地理学の授業も地誌や都市地理学、などが主ですね。 資源分野を専攻するにしても、資源そのものの開発を学びたいのであれば地学系の学部でそういうことを学べるところがいいとおもいます。 筑波大学の生命環境学類の地球学類とか生命資源学類とかいいんじゃないですかね。ここの学部は地理学ともかなり関連があるって聞いたことがあります。行ったことないので詳しくは全然わかりませんが調べてみてください。


Q.ニーチェ「最初の別れ」についてです ニーチェ全詩集(人文書院)61-62pに「最初の離別」という題で訳されていたので質問いたします。 >おお 月光よ、ぼくの心とその痛みを鎮めてくれたまえ なぜ月光が心と痛みを鎮めるのでしょうか? >一年人を埋葬して 新しい戸口の前にやってきた、 人びとがぼくの心を埋葬して もはやぼくのことを尋ねる人はいない。ニーチェ全詩集(人文書院)62p カミヤさんのトップページに貼ってある文の人文書院版ですが「心を埋葬して もはやぼくのことを尋ねる人はいない」とはつまり魂が失われたということでしょうか? このことについて回答お願いします。 追記 今はニーチェ詩集とともに「四つの四重奏」を読んでいます。が、分かりません。これでいのですよね?

A.困ったもんだな(笑)。 まあ、第一段で「星屑 悲しげに歩み行く」とか書いてあるじゃない。 第一段では、冷たい夜空を見て、その静穏に寂しさを抱いているんだよ。 そしてこの第二段で、その冷たい夜空に月が出て来るわけだ。つまり、冷たさを打ち破る明るい存在が月だ、ということだよな。 だから月が心の痛みを鎮めてくれる、ということだ。 ニーチェは、近代化が進む中で、自分に何が出来るのかを必死で考えていたんだよ。しかしそれはなかなか見出せなかったわけ。自分が見詰める虚空には、何もない、という時期が続いたんだよな。 それが、ここで言う「冷たき天空」ということなんだよ。 しかし、ある時何かを見出したわけ。そのことを「月」になぞらえている、ということだ。 でも、尚ニーチェは苦悩の中にいる。何かを見出しても、そこから更に思想を展開しなければならない。 近代化という巨大な思想の根源の転換は、恐ろしいほど巨大なものが入れ替わることを意味していたからな。 だが、多くの人はそういうことに気付かずに日々を過ごし、近代化がもたらす物質的な恩恵、思想的な自由度に喜んでいるだけだ。 どんどんすべてが新しくなり、昔のものはどんどん捨て去られる。それが「一年の埋葬」ということなんだよ。 昔のものを捨てても、ちゃんと「新しいもの」が次に用意されているんだよな。 これが近代化の最も恐ろしい側面でもある。 しかしニーチェはその中で独り闘っているんだよ。闘わなければ、近代化の深い闇にすべてが覆われてしまうことになる、ということだよな。 まあ、もっともっと深く求めていかなきゃダメよ。君は何かをすぐに欲しがっていると、散々言ってきているだろう。 『四つの四重奏』だってそうだよ。分からないって、「分からない」こと自体がいいわけじゃないからな。 私が言っているのは、君のその何でもお手軽に簡単に手に入れようという安っぽい根性を否定してるだけで。だから「分かろうとするな」というのは、「自分でどこまでも考えて行く習慣をつけろ」という意味だよ。 いい詩は例外なく深いんだよ。無限に自己を展開させていく巨大さがあるの。だから安っぽくわかろうなんて思うな、ということだ。 その君の「魂が失われたということでしょうか」なんて、一体どういうつもりでそう思ったのか、ということだよ。 自分勝手にふと思いついたことで結論付けようとしているとしか思えんぞ? 何の根拠も無いだろう。もっと真面目に読みなさい。


Q.死を見つめ考えることについてです。現代では「生きる」が前面に出てき過ぎて「死」とは何のなのかまた考えることがわからぬとなってていると見ます。 ここでご僭越ながら私の愛読書である、オルダス・ハクスリー「島」から引用させていただきます。「四百グラムのモクシャ薬を飲んで、自分自身で何が起こるのかためしてごらん、それがあんた自身について何をおしえてくれるかこの不思議な世界について何をおしえてくれるか。あんたもこの世界で生きて、学んで、苦しんで、ついには死ぬことなるんだから。そう、あんただって、いつかは死ぬー五十後かそれともあしたにも。だがそれは必ず起こる、だからその準備をしておかないのはばかだ」(人文書院第二刷「島」p162) 科学が発達して幻想的世界観が狭まってきてなお「死は唯の無である」であるという方向に向かっていてこれはまずいと読書をしていて思いました。、「いつかは死ぬー五十後かそれともあしたにも。だがそれは必ず起こる、だからその準備をしておかないのはばかだ」この言葉をたどって死に際して考察し進んでゆかぬは駄目と見ました。 このことについてご意見ひとついただけないでしょうか?お願いします。

A.一言って、私は何百回もそれを書いているよ(笑)。 死生観が絶対に必要だ、ということだよな。 死は無になることなんだよ。物質科学というのは間違ってないの。 無になることを受け入れなければダメよな。 でも、その「無」というものの捉え方があるわけ。 物質的には確かに無になるんだよ。人間の肉体はいつまでも残せないからな。ミイラ思想なんてものは馬鹿げている。 ただ、人間は行動するわけだ。その行動は様々な展開をして、世界に影響を及ぼす。そういう流れがわからない奴もまたダメよな。 肉体は滅び去るけど、展開は続くんだよ。そしてまた、その展開の根源である人間の行動は、「何か」によって為されたわけ。 その「何か」を宗教的には「魂」と呼ぶんだよな。魂の存在を捉えなければ、文化は受け入れることも体現することも出来ない。 死生観というのは「終わる」ということを受け入れることだから、物質的にではなくても「無」になることを受け入れなければならん。 しかし同時に永遠の「魂」というものも理解出来なければ、人間の営為は虚しいものにもなるんだよ。 まあ、その「魂」が、死後に自意識を持って存在するのかどうかは知らんよ(笑)。だけど、生きている間は何にしてもわからないんだから、そういうことは気にする必要はない。 死というものを、とにかくじっくりと考えて見る経験は必要だけどな。


Q.祖母の家から円地文子の『女坂』の初版本が見つかりました。昭和14年に人文書院から発行されているものです。このような古本はプレミアが付いていたりするのでしょうか? 価値のわかる方教えて 下さい!

A.千代田区の神田の八木書店をホームページから調べてメールで問い合わせてください。買い取ってくれるかもしれません。ここの出し値が基本になっています。でんわもいいですが。


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2017/03/28 Tuesday 07:13:11