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Q.歴史本について質問です。 現在、岩波ジュニアシリーズを読了しました。 次もシリーズものを読もうと思っているのですが、おすすめを教えていただきたいです。 個人的には 岩波新書の歴 史シリーズ 小学館 全集日本の歴史 のどちらかで迷っております。 吉川弘文館も一応候補です。 それ以外は古いので考えておりません。 1できるだけ読みやすい 2自虐史観に犯されていない のみが条件なので、左の岩波はどうなんだろうと思っております。 ご意見をお聞かせください。

A.「世界の歴史」 全30巻 中央公論新社


Q.真田昌幸の「安房守」について質問です。 大河ドラマ『真田丸』の影響もあり、度々質問に上がっている、この「安房守」ですが、「私称」である、という回答と、「正式に叙任されたもの」である、という回答と、それぞれ見受けられます。 私自身は真田氏にあまり詳しくなく、また全く正反対の内容なので、どちらが正しいのかお教えください。 お手数ですが宜しくお願いいたします。 ※Wikipediaの出典元になっている柴辻俊六さんの『真田昌幸』(吉川弘文館)にはどのように記載されているのか、お分かりの方は是非お教えください。

A.Wikipediaの「真田昌幸」の記事には以下のように書かれています。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8#cite_note-.E7.9C.9F.E7.94.B0.E6.98.8C.E5.B9.B8p201-54 「天正8年(1580)に喜兵衛尉を改め従五位下・安房守に叙任する[20]。」 引用元は、柴辻俊六・著『真田昌幸』(吉川弘文館、1996年、p.85)となっています。 柴辻氏は武田氏研究の専門家らしいです。 おそらく武田氏関係の古文書の中に、この「正式に叙任された」ことが書かれているのだと思われます。 実際にどの古文書から引用されたのかは、著者に尋ねてみなければわかりませんね。 江戸時代に著された「藩翰譜」には真田父子三人について、次のように書かれています。(コマ番号36/85、39/85) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142660 「真田安房守とぞ名乗りける・・・源三郎信幸、叙爵して、伊豆守に任じ・・・源次郎幸村も、左衛門佐になされて・・・」 また「寛政重修諸家譜」には以下のように書かれています。(コマ番号244/617) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713 昌幸 源五郎、喜兵衛、安房守 信之 源三郎、伊豆守、従五位下 幸村 源次郎、左衛門佐、従五位下 これらのことから察すると江戸時代のころには、真田昌幸は正式に安房守に叙任されていなかったと思われていたらしいですね。 つまり昌幸の安房守は私称であり、信之・幸村兄弟は正式な叙爵というわけです。 「正式に叙任された」説の出どころは、やはり柴辻俊六氏の『真田昌幸』らしいです。 この問題は、この本の著者に詳しく問い合わせたほうがいいのかもしれません。


Q.新年のための手帳を用意されている方も多いと思いますが、 お薦めの手帳は何でしょうか。 出来れば、年代・性別・お仕事の内容なども差障りのない 範囲で教えてください。 今までの手帳遍歴も教えていただければ幸いです。 因みに私は普段使いも出来そうな企画物の手帳として吉川 弘文館の歴史手帳を来年は使います。40代終盤のサラリー マンのなけなしの遊び心です。今までは会社で支給の物や 銀行がくれる手帳を使うことが多かったですね。

A.今年社会人になります。 20代・女性・販売職です。 手帳を使い始めたのは大学生からです。 前はマンスリー+1日1ページスタイルの「EDIT」と「ほぼ日手帳」を使っていました。アルバイトの業務日誌やプライベートで買ったものや食べたもの、サークルが文化系だったので創作のネタ帳など、何でも書いていました。 1日1ページの手帳は図面を書き込んだりメモ帳にも使えますが、スケジュールがマンスリーだけなので週単位のスケジュール管理は弱いと思います。 そこで今はマンスリー+ウィークリーのB6サイズを使用しています。 複数のタスクを管理するならウィークリーなど、1週間の予定を俯瞰できるものがいいと思います。 ただ、開いた時に180度しっかり開くか、ペンや名刺などを入れるポケットが充実しているか、空白部分が広いかなど、基本的な機能以外で差別化できる特徴は実際にお店で確認するといいと思います。


Q.冠位十二階や憲法十七条、蘇我馬子などと関連する聖徳太子はよく実在したか或いは実在しなかったか議論になることがありますが、どちらだと思いますか? 聖徳太子(574-622)といえば、「和を以って貴しと為す」で知られる一七条憲法を作った人で、・・・ 最古の木造建築である法隆寺も建てた。・・・こうした歴史的常識に反旗を翻し、「聖徳太子架空説」を唱え た研究者がいる。大山誠一・中部大教授(古代史)は、「<聖徳太子>の誕生」(吉川弘文館、1999年)など の著書で、厩戸王の存在は認めながらも、「聖人」としての聖徳太子は日本書紀を編纂するときに創作 されたと主張する。聖徳太子の実在を示すとされてきた推古朝時代(539-628)の史料が、使用語彙など から、後の時代に書かれたものであることが明らかになったためという。 大山説を支持する研究者も出てきた。大山氏が編者となり、昨年11月に刊行された「聖徳太子の真実」 (平凡社)では、多分野の専門家が大山説を裏付けている。そこでは、聖徳太子の実在にかかわる全史料 を対象に、その信憑性を探っている。 瀬間正之・上智大教授(上代文学)は、推古朝時代に書かれたとされる「推古朝遺文」を国語国文学の 立場から再検討。その一つである法隆寺金堂薬師仏の光背碑文には、太子が薬師仏建立に携わった 経緯が記されている。瀬間教授は、銘文中に出てくる「仕奉(つかへまつる)」に着目。当時の史料でこの 言葉が登場するのは七世紀末からであり、銘文はそれ以降の制作と見なすべきであろうとする。 日本書紀と聖徳太子の関係を探った章では、吉田一彦・名古屋市立大教授(古代史・仏教史)が、 書紀編纂に加わった僧・道慈の役割について論じている。書紀で聖徳太子が亡くなる場面は、唐の文献に ある僧・玄奘の死の場面に似ていて、かなり文学的な表現になっている。それは、留学先の唐でも学識を 評価されていた道慈が「机上で創作」したためと見る。 さらに注目されるのは用明・崇峻・推古の三王朝を否定し、蘇我馬子の王権があったとする大山氏の 論文。推古以前の王家の人々の墓は河内(大阪)にあるのに対し、これらの人々が活躍していた飛鳥を 中心とする大和(奈良)には、蘇我氏四代(稲目、馬子、蝦夷、入鹿)が葬られている。蘇我稲目を埋葬した 巨大な古墳などを身近に見ていた飛鳥の人々にとって、蘇我氏こそが王だったと主張する。

A.研究者はそれが仕事ですのでね。 色んな説を立ててこそ研究者です。


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2017/03/23 Thursday 09:12:24