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Q.部落解放同盟は水平社が源流なのですか?

A.直接繋がってはいませんが、源流といえば源流ですね。 全国水平社は1940年にその活動に幕を下ろしています。 部落解放同盟の結成自体は1955年です。 全国水平社の流れを汲む活動家と、それとは別の融和運動の活動家の大同団結により結成されました。 が、のちに水平運動系の活動家と融和運動系の活動家との間で対立が置き、後者の活動家を除名しました。 その除名された融和運動系の活動家達が結成したのが日本共産党のフロント団体である全国部落解放運動連合会(現・全国地域人権運動総連合)と、自由民主党系の全国自由同和会です。


Q.方授楚の『墨學源流』の日本語訳が分かりません。 「梁氏所墨學道大觳之説、亦非眞因。如果此為眞因、則墨子之學、應『及身而絶』、何以成為顯、經二百年而後滅亡耶。 」と 「凡此所述四端皆由墨學本身之缺點、而外界之反對不與也。然其缺點何以適暴露於秦漢之際也。曰墨學本以舊貴族社會之崩潰而發生、在改革過程中其主張雖激、尚有以活動也。迨變革巳經完成、政局穩定、此反統治階級之學派、非所宣也。堕落之墨者雖媚秦以圖自存、然秦之治為陽法而陰儒、漢之治之陽儒陰法、墨學於此遂亡矣。」という部分です。

A.梁氏の説く墨學の道が大いに酷薄だったから、という説、これも墨家滅亡の真の原因ではないだろう。もし此れが眞の原因であったなら、墨子の學は、應にその身に及びて絶えてしまったであろう。どのようにして、顯学(墨学は儒学と並び顯学と称えられた)となり得て、その後、二百年後に滅亡することになったのだろうか? *荘子:天下篇の中に、墨子道,哭而非哭,樂而非樂,其生也勤,其死也薄,其道大觳(その道は大いに薄情だ)と非難しています。 如果:もし~ならば 凡そ(孟子の言う)四端を述べる際、皆(この点を)墨學自体の欠点として指摘するが、しかし実際には外界の反對は起きなかった。しかし、その欠点が秦漢の時代の変革の時に、どうして顕在化したのだろうか? *暴露:顕露 [隐蔽的事物、缺陷、矛盾、问题等] 彼は説く、もともと墨學は、旧代の貴族社會の崩壊に伴って發生した。社会改革の時代の過程においては、墨家の主張は激烈だったけれども、なお活動可能だったとする。しかし、社会体制の變革が終わりに到達し、すでに完成されるに及んで、政局が穏かに安定すると、この本質的に統治階級に反する考えを内在する墨學派は、許容されなくなったのである。堕落した墨者は、秦に媚びることで存続を図った。しかし、秦の統治は法家を陽学として採用し、儒家は陰とされた。漢の統治では儒家を陽学として採用し法家は陰となった。(秦漢のどちらでも採用されなかった)墨學は、ここにおいて遂に滅亡したのである。 *缺點:欠点、短所


Q.4世紀のヤマト王権や日本列島の状況については、あまり詳しいことがわかっていない。 それがゆえに「空白の4世紀」と呼ばれていると思っていたのですが、国内の状況 (後世において「朝廷」と呼ばれることになる政権の源流、地方豪族層の勢力分布や、共通の文化圏など) はかなり明らかになっていて、単に中国の史書にその時代の日本列島の様子が残されていないがゆえに「空白の~」と呼ばれるだけなのでしょうか? 『ふるさと石川県の歴史』 (北國新聞社) において、 (前略) 地域統合を達成し、新たな指導力と権威を身につけた加賀・能登の首長たちが、ヤマト王権と政治的関係を樹立し、王権の儀礼を受容して定期的な古墳を築き始めるのは、四世紀後半ごろである。(中略) 中能登町小田中親王塚古墳で、出土した三角縁神獣鏡と鍬形石は、いずれも日本海側での分布の東限をなす。 とあります。4世紀といえば300年代ですが、この300年代において、後世の「朝廷」に直接的につながっていく「ヤマト王権」が、『近畿地方』にたしかに存在したという点では考古学的な見解は一致していて、なおかつ周辺地域 (たとえば山陰地方・山陽地方・北陸地方・東海地方など) との政治的なつながり、文化的な交流なども研究されているのでしょうか?

A.質問者の方の言われるように、「中国史書」に記述が無いだけの話です。 「九州倭国連合の盟主邪馬台国」が「魏、晋」の後ろ盾を失って以後、次に出現する、「日本書紀の言う、応神の即位(倭の五王の出現)は390年頃の事」で、この期間の120年間ほどの事柄が中国史書に無いのです。 普通に考えて、この120年、列島で人間の活動が停止していた訳では無く歴史が展開されていたのは明らかです。 歴史学者、考古学者等の、空白期間の研究により、「邪馬台国以後、列島はどのようなことになって、倭の五王が出現したのかを推察するのが、古代史の一番面白い所です」。 「日本書紀の編者」も、この空白を処理(皇統の一系維持)するのに苦慮したようです。 「日本書紀の神功皇后紀」は、神功69年で終了しています、神功の元年干支から見ると269年(己丑)の事です。 次の応神の即位は、翌年の270年で干支は、「庚寅」に成るのですが、「応神」の即位を270年と考えている学者はいなくて、干支は同じ「庚寅」なのですが、120年間、きっちりすっ飛ばした390年の事としています。 「日本書紀の編者」は、「神功皇后紀」を創作することにより、「卑弥呼、壹与+空白の期間(120年間)」を解消するような、策(はかりごと)を施しています。 早い話、「邪馬台国」以後、次の「倭の五王(日本書紀の応神)」が出現するまでの120年程の間、列島の各地には、地域的な権力者は存在していましたが、中国や半島諸国に対しての、列島を代表する最高権力者が存在していなかったという事です。


Q.読書家の皆さんにうかがいます 年金データ流出は マイナンバー法案の採決を遅らせるために 反対派が打った奇策ですか 1箕作麟祥(みつくりりんしょう) 2前川喜作 3深津絵里 4その他 箕作省吾・しん夫妻の長男として江戸の津 山藩邸に生まれた。幼名は貞太郎(のち貞一 郎)。祖父は蘭学者の箕作阮甫で、父・省吾 は阮甫の婿養子、母・しんは阮甫の四女だ が、父・省吾が若くして亡くなったので祖 父・阮甫に育てられた。阮甫の死後、箕作 家 [1] の家督を相続した。 藤森天山・安積艮斎に漢学を、家と江戸幕 府の蕃書調所(東京大学の源流)で蘭学を学 んだ後、ジョン万次郎(中浜万次郎)につい て英学を学んだ。1861年(文久元年)に15歳 の若さで蕃書調所の英学教授手伝並出 役、1864年(元治元年)には外国奉行支配翻 訳御用頭取となり、福澤諭吉・福地源一郎ら とともに、英文外交文書の翻訳に従事した。 箕作麟祥といえばフランス法学者のイメージ があるが、彼は元来「英学者」であった [2] 。 また、法典調査会時代にはドイツ語文献も読 めるようになっている。 1867年(慶応3年)、ナポレオン3世のパリ万 国博覧会に際して、将軍の名代として出席す る徳川慶喜の弟・徳川昭武に、幕府の命によ り渋沢栄一らと一緒に随行し、その後徳川昭 武とともにフランスに留学した。 帰国後の1868年(明治元年)、明治新政府の 下で、開成所御用掛から兵庫県御用掛となっ て新設の神戸洋学校教授に着任。時の兵庫県 令・伊藤博文(伊藤俊介)は、騎馬で出迎え 歓迎を表した [3] 。翌1869年(明治2年)には 東京に戻り、外国官(現・外務省)翻訳御用 掛となるが、外交官を好まず、同年大学南 校(現・東京大学)大学中博士に転じる。な お、同年開いた私塾・共学社には、岸本辰 雄らが学んだ [4] 。 1869年(明治2年)、参議・副島種臣からフ ランス刑法典の翻訳を命じられ、翌1870 年(明治3年)には制度取調局長官(後の司 法卿)・江藤新平からフランス民法典(ナポ レオン法典)の翻訳を命じられた。以後、長 年にわたり法典の翻訳、編纂に携わってい く。また、1871年(明治4年)に文部省が設 置されると、その基礎固めに参画し [5] 、学 制の起草・制定にあたっては、起草委員長と もいうべき地位にあって [6] 、主導的役割を果 たした。 日本で初めて「権利」「義務」という訳語を 用い [7] 、5年間の歳月をかけてフランスの諸法 典を全訳した『仏蘭西法律書』

A.あなたの思い違いです。 海外では1つの番号に多くの情報を紐付けした場合は間違いなく情報流出の犯罪大国化します。アメリカもその好例です。 あんな悪制度を導入すれば国民の人権が損なわれるのは国際常識です。


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2017/03/28 Tuesday 11:20:36